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    ブラッドフォード悲劇

    イングランドでは、4月25,26日の全ディビジョンの全リーグ戦で、ブラッドフォード悲劇30周年の追悼が行われた。これはFAが主導してリーグと全クラブの同意を得て実施されたもので、全てのスタジアムで試合前に1分間の黙とうが捧げられた。

    1985年5月11日、当時3部にいたブラッドフォード・シティが、リーグ優勝を決めて、翌季の2部昇格に向けての期待を胸に、ホーム(バレー・パレード)での最終戦に臨んだ。スタンドのファンに優勝杯を披露して、高揚した気持ちで開始した試合(対リンコン・シティ)は、誰もがお祝いの記念試合になるものと思っていた。しかし、試合開始40分にメイン・スタンドで発火した炎が、チームとファンを地獄に突き落とした。木造の古いスタンドで出た炎は、乾いた空気の中で、一瞬のうちに56人の命を奪い、265人の負傷者を出した、イングランド中に衝撃を与えた悲劇となった。

    今季も3部でプレイしているブラッドフォード・シティは、1月のFAカップ4回戦で、プレミアリーグ首位のチェルシーに、スタンフォードブリッジ(チェルシーのホーム)で4-2と大逆転勝利を収めてイングランド中のヘッドラインを飾った。「FAカップ史上最大の番狂わせ」と言われたブラッドフォードの大金星に、イングランド中のメディアやファンから惜しみない拍手が飛んだ。

    しかし、ブラッドフォードの「ジャイアント・キリング」は何ら珍しいことではなく、2年前には当時4部にいたブラッドフォードが、リーグカップでウィガン、アーセナル、アストンビラとプレミアリーグの3チームを破って決勝進出したことは記憶に新しかった(決勝戦はスウォンジーが5-0と優勝)。

    そして、そのアストンビラ戦(準決勝1戦目、3-1でブラッドフォードが勝利)で、ブラッドフォードがピッチの上の活躍でイングランド中のファンやメディアの賞賛を受けていた時に、残念な出来事が起った。4部のブラッドフォードがプレミアリーグのアストンビラを手玉に取る様子に、感銘を受けたマイクル・オーウェンが、Twitterに「ブラッドフォードは素晴らしい!」という言葉と共に「Bradford are on fire!」とポストしたのだった。この「on fire」という表現は、一方が圧倒的に優位に立っているフットボールの試合で良く使われる慣用表現だったが、文字通りに解釈すると「火事になる」という意味だった。つまり、オーウェンのコメントは、「ブラッドフォードで火が燃え上がっている」という、悲惨な記憶を呼び起こした。

    これに対して、チームを問わずイングランド中のファンから一斉に、オーウェンに反省と謝罪を促すメッセージが飛んだ。自分の過ちに気づいたオーウェンが、即座に「言葉の使い方を誤ったために、無神経なことを言ってしまいました」と、謝罪のメッセージを出した。これを受けて、「オーウェンは、気を付けるべきだった」という批判は出たものの、他意はなかったとして、必要以上の追及はなかった。

    暫くして、オーウェンが「僕の父が現役時代にブラッドフォード・シティでプレイしていた経歴を持つ(1970–1972)という縁もあって、僕はブラッドフォードに対してはいつも親近感を抱いている」と、ブラッドフォード・ファンに対して感情のこもったメッセージを出したことは、印象深いものだった。

    4月25日のバレー・パレードで、「ブラッドフォードの市民にとっては永遠に癒えることがない苦悩」と顔を曇らせるファンが、56人の仲間に追悼を捧げた時に、イングランドの他のスタジアムでは、30年前に既に物心がついていたファンが「30年前に、あの悲劇を知った時のショックは今でも忘れられない」と、若いファンに語り掛けた。ブラッドフォード・シティと縁がある・なしに関わらず、全チームのファンが「フットボール・ファンにとっての悲劇」と、56人を追悼した。

    フットボールの試合に出かけて、二度と帰らない人になる悲劇はこの先、絶対に起こってはならないと、イングランド中のファンが誓いを新たにした。

    味方が足をすくい始める時

    4月15日に、ボルシア・ドルトムントのユルゲン・クロップが今季末で監督を離任することが発表された。2008年に13位に低迷していたドルトムントを引き継ぎ、財政難の中で若手を育ててチーム再編を果たしたクロップは、2010–11季、2011–12季とブンデスリーガ連覇を達成し、翌2012–13季には「ドイツCL決勝」でバイエルンに2-1と惜しくも敗れる快挙で、今をときめく監督の一人となった。しかし、今季は降格ゾーンに低迷するなど成績不振に苦しみ、クロップの行方が注目されていた中での決定だった。

    ジョークを言って笑う明るい人柄がウケて、イングランドでのクロップ人気は高く、BBCを始めとするイングランドのメディアで、何度か独占インタビューを受けていた。その中で、「私はサー・アレックス・ファーガソンには絶対にならない」と、ドルトムントに対する誇りを抱きながらも、将来的には外国で新たなチャレンジに臨む野望を語っていた。更に、「言語のことを考えると、可能性が高いのはイングランド」とも言っていた。

    今回の発表で、イングランドのメディアは一斉に「クロップの行く先は?」と、憶測記事を掲げた。

    折しも、その3日前のマンチェスター・ダービーで、4-2と大敗を食らったマンチェスターシティは、スキャンダル好きのメディアから集中攻撃を受けていたところだった。

    「クロップが今季末にフリーエージェントになるという新たな情報は、シティのクラブに方針転換のきっかけを与えた」という見出しで、地元紙マンチェスター・イブニング・ニュースが全国紙の「監督クビ」に拍車をかけた。

    最後の砦である地元紙にも見放されたシティは、イングランドの「クロップの行く先」オッズで首位を独走した。そして、2位はアーセナル、3位Liverpoolという順位は、どのペッティング・オフィスでも一致していた。

    その余韻が残る4月19日のリーグ戦で、シティがウエストハムに2-0と勝って連敗を2でストップし、メディアの「更に炎上」を食い止めた直後に、FAカップ準決勝でアストンビラに2-1と敗退したLiverpoolが、代わって「クロップの行く先」としてイングランド中の注目を浴びる立場に立った。

    「FAカップ準決勝でこんな情けない試合をするとは、ショックで言葉も出なかった。アンフィールドでの3月22日のマンチェスターユナイテッド戦と瓜二つ。Liverpoolの選手は誰一人として、ビッグ・マッチに臨む決意を見せなかった」と、元選手や親Liverpoolのアナリストが一斉に選手を批判する中で、地元紙リバプール・エコーは「選手にやる気を出させるのは監督仕事」という側面に焦点を当てた。

    「ブレンダン・ロジャーズは、Liverpool監督に就任してまる3年間トロフィーなしという、1950年代以来の不名誉な記録を残すことになった。1959年のビル・シャンクリー以来のLiverpoolのクラブ史上で、トロフィーなしで終わった監督はロイ・ホジソン(2010-11年、在任5ケ月)のみ。果たしてロジャーズは、2人目にならないチャンスを与えられるか?」。

    地元紙が警鐘を鳴らす中で、ファンの間で「ロジャーズにもう1年、チャンスを与えるべきか?」という議論は、日に日に活発になっていた。

    ビッグ・クラブの監督がクビになる原因としては、一般的には、チームの成績不振、移籍の失敗、致命的な失言や問題行動でファンの反感を買う、というものが多い。それらの結果、選手の信頼を失ってチームがまとまりを失うことになれば、監督交代は不可避となる。

    伝説的なまでに、「勝てない時にも100%監督と選手をバックアップするファン」と言われているLiverpoolでは、圧倒的に移籍の失敗が主要因だった。その意味では、在任3年間で£200mを超える戦力補強の結果を厳しく問う声は、ファンも認識していた。

    更に、2013年にトットナムがガレス・ベイルを世界記録の£80M超で手放した際に、£100Mを費やしてベイルの穴埋めが出来ずに6位で終わったシーズンに、ロジャーズが「£100Mを投入して戦力を補強すれば、リーグ優勝を狙う成績を収めるべき」と言った時には、Liverpoolファンの間で「ロジャーズは時々、不必要な議題に口を挟み失言をする。これは改めるべき。自分に戻って来ないとも限らない」という心配の声が飛んだ。

    そして、ファンの危惧した通り、1年後にはアンチのメディアが当時のロジャーズの失言を掘り出して批判の材料に使った時には、ファンにとって擁護の余地はなかった。

    ただ、今季前半の不調を乗り切った大胆なフォーメーションの変更や、有望若手にチャンスを与えて育てるなど、ロジャーズのコーチとしての手腕に関しては、誰もが高い評価を与えていた。その中で、「ビッグ・クラブの監督としての経験と実績はないが、素質はあると信じている。あと1シーズン、それを証明するための最後のチャンスを与えるべき」という声は根強かった。「そのためにも、チームが自信と目標を一気に失ってどん底に立った今、残り試合で実力を示して欲しい」。

    ファンの祈りは、「トロフィーの夢は散ったが、シーズンはまだ終わっていない」と締めくくったエコー紙の記事と同期を取っていた。

    クロップの動向がイングランドのビッグ・クラブの監督クビの憶測に火に油を注ぐシーズン終幕は、Liverpoolにとって、リーグ戦の残り6試合が本当の試練になる。

    26年前の真相

    4月8日、イーウッド・パークで行われたFAカップ6回戦再試合で、Liverpoolは苦戦の末にブラックバーンを1-0と破って準決勝進出を決めた。3月8日にアンフィールドで0-0と引き分けた後で、基本的には翌週に行われるはずだった再試合が、ブラックバーン側の都合と、CLと同じ日に試合をやってはいけないというUEFAのルールの関係で、1ケ月先延ばしとなった。その間に準決勝の組み合わせも日程も決まり、早々に勝ち抜きを決めていたアストンビラは、4月19日の15:00にウェンブリーで対戦する相手の決定を4月8日まで待たされたのだった。

    晴れてビラとの対戦が決まった後で、Liverpoolファンは「3年ぶりのアンフィールド・サウス」と、複雑な声を上げた。黄金の80年代には、リーグカップとFAカップの両決勝戦8回出場というウェンブリーの常連だったLiverpoolは、ファンや地元メディアの間で「ロンドンにある第二のホーム・スタジアム」という意味合いから、ウェンブリーを「アンフィールド・サウス」と呼ぶ慣習が定着していた。

    ただ、ウェンブリーが2007年に新装開店してからは、決勝戦だけでなく準決勝もウェンブリーで行われるようになり、「ウェンブリーの常連」の意味合いはやや変わった。これはFAが、改築工事に費やした資金を少しでも早く回収すべく、ウェンブリーでの試合数を増やすために取らた措置だった。そのような仕方ない事情はあるものの、ファンや関係者の中では、「準決勝が行われるようになってウェンブリーの価値が下がった」という声も多い。

    ウェンブリーが決勝進出チームだけの特典だった頃は、準決勝はニュートラルなスタジアムとして、トップディビジョン(現在はプレミアリーグ)のクラブチームのホーム・スタジアムの中から、FAによって選出されていた。選定の基準としては、準決勝に勝ち残っていないチームのホーム・スタジアムの中で、対戦2チームにとって同じ程度の距離という条件が一般的だった。90年以降は距離的平等という条件はなくなり、収容人数や設備が重要視されるようになった。例えば、Liverpoolの最後のFAカップ優勝シーズンである2006年の準決勝は、オールド・トラッフォードで行われた。相手のチェルシーはロンドンから200キロの道のりでマンチェスター入りし、僅か50キロの隣町から来たLiverpoolに2-1と敗退したのだった。

    それは、イングランドのフットボール界が、試合に行くファンの安全を重要視するという、ごく当たり前の配慮を、その頃からやっと取り始めたからだった。試合に出かけた家族が帰らぬ人になるという悲劇が、二度と起こらないようにという決意が、やっと芽生えたのだった。

    その前の時代に当たる1989年4月15日のFAカップ準決勝で、その時点で既にスタンド内で小規模な事故が複数回発生していた南ヨークシャーのヒルズバラ・スタジアム(現在2部にいるシェフィールド・ウェンズディのホーム・スタジアム)は、前1988年のFAカップ準決勝(試合結果は2-1でLiverpoolの勝利)も全く同じLiverpool対ノッティンガムフォレストの対戦だった実績から選定された。

    そのヒルズバラ悲劇の公判が、2014年3月31日に開始されて、現在も行われている。2012年9月に新たな証拠が発見されたことから、再審が決定されたもので、遺族の便宜を図ってリバプール市の隣町ワーリントンで行われている。それまでの裁判はいずれもロンドンで行われたため、遺族の負荷は多大なものだった。

    このワーリントンでの公判が開始してからは、判決に影響を与える可能性がある行為はできなくなっている。つまり、公の場でヒルズバラ悲劇に関する意見を表明する場合、判決に影響を与える可能性がある議論にならぬよう、細心の注意を払う必要がある。

    Liverpoolファンの間では、公判が行われている間は公の場では話題にしないようにという同意が交わされている。地元紙リバプール・エコーが日々報道する関係者の証言内容に、強い感情を抱きながらも、26年間待ち続けた真相のために、今は口を閉ざし続けている。

    そんな中で、4月15日にはアンフィールドで、26回目のヒルズバラ・メモリアル・サービスが行われる。26年前にヒルズバラ・スタジアムでレフリーが笛を吹いた15:06に、96人を偲ぶ黙とうが行われる。この日、96人に追悼を捧げるのはコップ・スタンドの参列者だけではない。リバプール市の全ての公共施設で半旗を掲げ、ライム・ストリート駅前のジャイアント・スクリーンには96人の写真が映される。

    先駆けて、4月13日にアンフィールドで行われたリーグ戦(試合結果は2-0でLiverpoolの勝利)では、対戦相手のニューカッスルの選手も黒のアームバンドを付けて96人に追悼を捧げた。そして、試合前の1分間の黙とうは、アウェイ・スタンドのニューカッスル・ファンも協力し、ピンが落ちる音が聞こえる静寂の中で遂行された。

    これまでの25回と同じく、チームの境界を越えてフットボール・ファンが団結した。

    スカウサー色が薄まるアンフィールド

    4月6日に、地方紙リバプール・エコーが、「キャラに続いてスティービー、そしてコップ・マガジンがこの夏に去ることになり、アンフィールドのスカウサー色がまた薄まることになった」という見出しで、2015年6月号を持ってコップ・マガジンが廃刊となるニュースを報道した。

    Liverpoolの最後のリーグ優勝からほぼ5年、かつてのテラスだったスパイオン・コップがなくなってから10ヶ月余りの1995年3月に、リバプール・エコー紙のLiverpool FC専門の月刊誌としてコップ・マガジンが創刊された。スパイオン・コップに代表される、忠誠でユーモア精神に満ちているスカウサーならではの紙面は、チームが不調に苦しんでいる時にもジョークを絶やさず、ファンが誇りと笑顔で暗黒の20年間を前向きに進んだ時代の、良きパートナーだった。

    その廃刊の知らせに、嘆きの声を上げたのはファンだけではなかった。創刊号の表紙を飾ったロビー・ファウラー、現役時代にはコップ・マガジンを持ってトレーニングに通ったというジェイミー・キャラガー、同年代のデビッド・トンプソンら、スカウサーでアカデミー出身の歴代人気選手たちが、続々と残念メッセージを出した。

    地元紙であるコップ・マガジンは、必然的に、隣人エバトンをネタにしたジョークが冴え、特に負けた試合の失意を笑いに変える起爆剤としても機能した。その一例が、2002年のFAカップ4回戦で、ハイバリー(当時のアーセナルのホーム・スタジアム)でアーセナルに0-1と敗退した試合で、当時は24歳の若手だったキャラが、スタンドから飛んできたコインを拾って投げ返したことで退場を食らった事件をパロディにしたジョーク記事だった。「ビル・ケンライト(エバトンのチェアマン)が、『元エバトン・ファンともあろう者が、お金を粗末にするとは何事か。拾ったコインを私にくれれば、戦力補強資金の足しになったのに』とキャラをこき下ろした」。

    そして、メジャーなトロフィーから疎遠になる中で、ファンにLiverpoolの伝統と誇りを唱え続けたコップ・マガジンの、最長ロング・ランの「コップ・チャレンジ」は、地元紙の枠を超えて世界にその存在感を広めた。これは、ファンがコップ・マガジンを片手に、4本の指を立てて撮った写真を、キャプション付で紹介するという連載ものだった。

    「ファンが休暇で訪れた土地で、Liverpoolのヨーロピアン・カップ(CLの前身)の優勝回数を指で示した記念写真を撮る、というルールで、最初は夏だけの企画だった。あまりにも好評だったので、定例記事になった。しかも、指の数からロング・ランぶりが伺える」と、編集者は微笑んだ。

    5本の指になった「コップ・チャレンジ」は、世界中のファンはもとより、ロビー・ファウラーの特別参加もあった。

    1993のファーストチーム・デビュー以来、「ゴッド(神)」のニックネームでLiverpoolファンの心に住み続けているファウラーは、地元のエバトン・ファンのご家庭で生まれ、自らエバトン・ファンながらLiverpoolのアカデミーチームで育った経歴から、地元のファン同士のライバル意識を理解し、相手ファンとのコミュニケーションも大切にしていた。

    2001年に、当時の監督ジェラル・ウリエのフォーメーション下で出場機会を失い、やむを得ずLiverpoolを出てリーズ・ユナイテッドに行ってしまった後も、Liverpoolファンの人気は全く変わらなかった。そのファウラーが、リーズの財政危機の影響などで、2年後にマンチェスターシティに移籍した時には、隣町のユナイテッド・ファンから「大歓迎」を受ける立場になった。

    マンチェスターユナイテッドが、隣人シティとLiverpoolを二大ライバルとしているのに加えて、リーズとは「ばら戦争(※)時代からのライバル」という両ファンの「言い訳」は、イングランドのフットボール界では有名な笑い話だった。
    ※15世紀の英国で、白ばらのヨーク家(現在のリーズ地区)と赤ばらのランカスター家(現在のマンチェスター地区)間で争われた戦いのこと。

    ユナイテッド・ファンが「Liverpool⇒リーズ⇒シティ。まるで我々にブーイングしてくれと頼んでいるかのような動きだ」と目を輝かせて臨んだ2006年のマンチェスー・ダービーで、ウォームアップしていたファウラーが、アウェイ・スタンドのユナイテッド・ファンの前でさりげなく5本の指を見せた場面が、コップ・マガジンを飾ったのだった(試合結果は3-1でシティの勝利)。

    「ロビー・'ゴッド'・ファウラーが『コップ・チャレンジ』に挑む横で、スタンドのユナイテッド・ファンが一斉に立ち上がってブーイングを飛ばす写真」のエピソードは、今でもマンチェスー・ダービーが近づくとLiverpoolファンの間で話題になる。

    たまたま今回のマンチェスー・ダービーの直前に発表されたコップ・マガジンの廃刊は、近隣都市のファンのライバル意識も吸い込んで、スカウサー・ユーモアを貫いたLiverpoolのファンや選手たちの、甘辛い20年間に一つの区切りを付けることになった。

    かくしてスカウサー色がまた薄まるアンフィールドが、Liverpool FCの伝統と誇りを維持することは、ファンにとっても重要な課題となる。

    ノスタルジーと許し

    3月27日のユーロ予選リトアニア戦で、70分にサブで登場してイングランド代表デビューを飾ったハリー・ケインが、僅か80秒でゴールを決めたニュースが暫しイングランド中のヘッドラインを独占した(試合4-0でイングランドの勝利)。

    現在プレミアリーグの得点ランキングで、チェルシーのディエゴ・コスタと並ぶ19点で首位を走る21歳のケインは、外国人スター選手がひしめくプレミアリーグの中で、彗星のごとく現れて一気にメディアのアイドルとなった。今回のインターナショナル・ウィークの前には「ケインは代表選出なるか?」で沸き、「ケインは初キャップなるか?」と続き、「初ゴールの夢のデビュー」で締めくくった。

    ケイン・フィーバーが止まないインターナショナル・ウィークの中で、国内の数少ない話題として、3月29日にアンフィールドで行われたオールスター・チャリティ戦が静かな話題を呼んだ(試合結果は2-2)。目標をはるかに上回る£1m超の基金を集めたこの試合は、ピッチの上で笑顔でプレイした選手たちと、新旧Liverpoolのスターやゲストに温かい拍手を送った満員のファンが、全国メディアから賞賛を受けた。

    「元Liverpoolの選手たちが、スタンドのファンから熱烈な歓迎を受けて、感激に頬を染める感動的な場面が目立った。特にフェルナンド・トーレスは、ファンからの冷たいブーイングを覚悟していたのに、総立ちの拍手と懐かしい'Liverpool No.9'の歌を受けて、試合中に足を止めてスタンドに拍手を返した」。

    地元紙リバプール・エコーは、一歩進んで「ノスタルジーと許し」という見出しで、「次はマイクル・オーウェン?」と、問いかけを掲げた。

    「試合後のインタビューで、目を潤ませながら『Liverpool No.9の歌は、僕の記憶から一度も消えたことがなかった。今日のファンの歌は、一生心に留まることは間違いない』と語ったトーレスが、コップと撚りを戻した場面は印象的だった。近年、Liverpoolファンを裏切って出て行ったもう一人のストライカーであるマイクル・オーウェンが、今日のトーレスのようにファンから『ノスタルジーと許し』を受ける日は来るだろうか?」

    1998年のW杯フランス大会で、18歳と183日で「W杯出場イングランド代表の最年少選手」記録を達成した頃のマイクル・オーウェンは、イングランド中に、今のケインと同様のお祭り騒ぎを湧き起こした。更に、準々決勝のアルゼンチン戦(試合結果は2-2、PK戦でイングランドは敗退)での「あのゴール」の後で、イングランドのオーウェン熱は極限に達した。1998-99季のプレミアリーグでは、宿敵エバトンなどごく一部を除いて、Liverpoolの全アウェイの試合で、相手チームのファンが盛大な拍手で「イングランド代表チームの期待の彗星」オーウェンを歓迎した。

    ケインもオーウェンも、ユース・チームから育ったクラブでスターダムへの道を踏み出したという点も共通していた。ケインはロンドンのトットナムの地元という地区でトットナム・ファンのご家庭に生まれ、トットナム・ファンとして育ったのに対して、オーウェンは、元エバトンの選手だったお父さんの影響でエバトン・ファンとして育った。

    もちろん、Liverpoolの歴代スター選手の中で、少年時代はエバトン・ファンだった選手は決して少なくない。特に、オーウェンとはLiverpoolのユース・チーム時代から一緒だったジェイミー・キャラガーは筋金入りで、Liverpoolでファーストチーム・デビューを飾った後にも、チームのバスの中で大声でエバトンを応援して、ロニー・モーラン(当時のアシスタント)から叱られたという話はあまりにも有名だった。「エバトン・ファンとしてはキャラの足元にも及ばない」と笑うオーウェンは、そのような縁も手伝ってキャラとは親友になった。

    2004年夏に、Liverpoolファンにとって青天の霹靂のような形でレアルマドリードへと去って行ったマイクル・オーウェンは、かつて「イングランド代表チームの期待の彗星」と騒がれた輝きを徐々に失って行った。

    1980年代からLiverpoolファンを続けている私にとって、デビューから見続けた選手を見送る憂き目は何度も経験したとは言え、オーウェンは中でも大きな打撃を受けた選手の一人だった。ただ、オーウェンに対するLiverpoolファンの感情は、私の実感では、あくまで在籍中の業績を評価し、怒りよりも残念に思う声の方が多かった。

    しかし、2010年に、キャラの在籍10周年記念試合でアンフィールドのピッチに立ったオーウェンに対して、スタンドから拍手とブーイングの両方が飛んだことは事実だった。「親友のオーウェンが、Liverpoolファンから拍手してもらえるようにと、レフリーにPKを頼んでいた」と、試合後にキャラが明かしたその計画は、スタンドからの「キャラがPKを蹴る」リクエストのチャントで失敗に終わった。オーウェンがトーレスのように「ノスタルジーと許し」を受ける日が来るのか、今はまだわからない。
    プロフィール

    ピーエルエフジェイ

    Author:ピーエルエフジェイ
    平野圭子(ひらのけいこ)
    プレミアリーグ ファングッズ店長です。

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